魚のスポンジ

友人は境界性パーソナリティ障害 (BPD )、5年の付き合い。

ながい道の話

f:id:fishpop:20190718011605j:image

ながい道のり。この先の道のりが長いとか短いとか、未踏のゴールのことではなくて。去った者との距離が、とか、通過したかつてのゴールを振り返って、とか、そういうときの「長い道のり」。

 

BPDの友人はいくつもの小さな通過点を、右往左往・試行錯誤しつつ着実に踏破してきた。並大抵のことではなかった。彼女の愛する魚が逝ってしまったのは、日が変わって昨日のこと。

 

自分も同じように、愛しい魚を失ってロスの只中だからよくわかるのだけれど、これはただごとではない出来事。心に穴があくとはこのことかと知る。

 

渦中、かつての彼女ならできなかったような、感情の美しいともいえる起伏があって、魚の死を私も悲しみながら、ここまでしっかりと成長している友人に感動したりもする。思わず「GOOD JOB」の握手があった。

 

ちゃんと悲しんでいる。感情がはみ出て暴走するということがない。深く悲しんでいる。防衛反応としての変な怒りとか、自暴自棄がない。脈絡のない爆発がない。状況が自意識の熱で蒸発せず、消えてしまわない。

 

自律しているとおもう。これは、いつだったか、数年前からだと思うけれど、彼女が目標とした状態のひとつだった。「辛すぎて急に頼ってしまったこと」を、私に謝ることさえした。辛さにあって、人を気遣っていた。いつのまにか辿り着いていた。

 

長い道のりをあるいてきたな、と思った。ものやいきものを愛することができて、悲しむことができて、学び、行い、変わってきた。これからも変わってゆくし、とっくに変わってもいた。それに私たちは変わり者だ。

 

私たちの魚はどこかに行ってしまった。物理的には、各々の観葉植物の根のあたりにいる。空想的には「ミニカーに乗って走り回っている」ことにしている。ロマンチックに言えば心の中にいる。小さな魚が、彼らの体の色とお揃いのミニカーをブンブンいわせている、ということ。彼女にもこの言葉は通じている。

 

魚たちの道のりに距離はあるだろうか。とはいえ、ミニカーに乗って行く道は、どうしたって美しいはずだ。