魚のスポンジ

友人は境界性パーソナリティ障害 (BPD )、5年の付き合い。

衝動性のこと

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一昨日、昨日、今日は「おもたい」日になった。理由は複数重なっている。ひとつは猛暑、ひとつは寝不足、ひとつは予算、そして人づきあい。

 

人といると、どしどしストレスがたまるので、親しい友人といっても2〜3日家にいられると、キャパを超える。一昨日は友人が泊まりにきて、昨日は友人宅へお邪魔して泊まり、今日は友人の街ですごした。総じてありえない猛暑、若干の寝不足。

 

BPDの友人は「インチュニブ」という、割と最近大人向きに処方できるようになった錠剤を服用している。インチュニブは強烈な眠気や注意散漫という副作用がある一方、「衝動性を抑える」というスペシャルな効用がある。BPDというか、発達障害に効く薬。

 

衝動性。これがすべてのトラブルがとる姿、といっても良いかもしれない。衝動性の原因は「不安感」かもしれないし「さみしさ」かもしれないし「怒り」かもしれない。でも表現されるときには衝動性の姿をとる。

 

衝動性に伴うかけ声は「死んでやる!」「会いに行く!」などがある。いずれにせよ、衝動的にバッと要求・行動して、さまざまな苦痛が、友人自身とその周辺に撒かれてしまう。飛び降りようとするのをグッと抑えたり、道路の真ん中をあるくのを「おーい」と呼んだりしたのは何年も前の話。

 

昨日は友人の街であそび、そのまま解散の予定だった。前日にうちへ遊びにきたのは、予定はずれのちょっとした要望であったから、思いのほか長い時間を一緒にいたことになる。猛暑、寝不足、お互い疲労していたから、スムーズな「またね」に適した時頃だった。

 

ここで、友人はインチュニブを切らしていて、1日インチュニブ抜きで過ごしていたことを書いておかなきゃいけない。インチュニブの服用を開始してからというもの、衝動性は本当に軽減していた。

 

ところがお薬1日抜いただけで「今日泊まりに行く」という号令が飛びだしたのだった。衝動性が、理性をすっとばして、というか派手に蹴っとばして、全面にズズイと現れて仁王立ちした。そこそこ賢い「今後のよてい」はぺちゃんこになって萎れた。

 

お金は使いきっていて、これから我家に呼ぶならば予算オーバー、あちらも節約中のはず。それに第1ちょっと具合もわるい、これはお互い猛暑ゆえだ。それに2日続けて遊んだわけで、3日目に突入する理由は特にない。ここで「またね」が最適解なのは、お金的にも体力的にも予定的にも、疑いないはずだった。

 

「泊まりにいく!」というのは、「一緒にいたい」「ひとりはいやだ」という理由からはじき出された、理屈度外視のまさに「衝動」だった。

 

ひととおり揉めて、わがままを渋々きくかたちで泊まりにくることになる。そこから先はなかなかの混乱があったけれど、順にまとめると、こう。

 

まずお茶がしたいとのことで、どこにするか、というところで一悶着。奢って欲しいという旨のことばにムッときて、こちらは「わがままに振り回されている」と感じ、友人はそんな私の「不機嫌な態度にふりまわされている」と感じる。

 

それから、友人の希望よりもチープな店にはなってしまったけれど、喫茶店へ。到着する頃には友人の足腰が激痛状態に。ある怪我の後遺症で、疲れ・気圧・湿度などが痛みに変わるのだ。とくに精神的に不安定なときほど「感覚過敏」状態で痛みの感じ方が増す。後遺症の辛さ・悔しさなども相まって「死んだ方がましだ」というくらい絶望してしまう。

 

このとき私は、「これ以上歩くのはキツイはず、どうしたらいいかの」という心配・配慮のきもちと「反対をおしきって自分でむりやりきたのに」というモヤモヤするきもち。「なんでここにいるんだろう」とか「鎮痛剤効くかな」とか諸々のきもち。そしてなにより疲労困憊のイッパイイッパイなきもち。これらを上手にブレンドして気の利いたセリフを言えるほどの、余裕はなかった。

 

そこで互いに衝突。

こちらのぶっきらぼうな無言にしびれを切らして怒りを伝えられた。「なんで黙ってる。おら、言えよ」「私が迷惑なんだろ?だったら死んでやるよ。今日でおわりだ、さよなら。」

 

お互いに「いいかげんにしろよ」という、同じ気持ちを持っていたのがよくわかる。

 

「こっちは辛くて痛いのに、不機嫌な態度のせいで余計に不安にさせて、メンタルメチャクチャだ。いいかげんにしろよ?」VS「わがままいって都合無視して、おまけに迷惑なら死んでやるとブチギレる。なんなんだこの状況、いいかげんにしろよ」

 

険悪至極なムードに隣のお兄さんもビビっていた。このあとお店の閉店時刻のため退店、脚の痛みで歩けないので、新宿からタクシーへ。歌舞伎町で運ちゃんするにはこんくらいじゃないとダメなのかな、ってくらい態度の粗い運転手への苛立ちに、支払いのさみしさが一枚加わってしんみりした。

 

友人の街で「またね」ならば、家計簿どおりピッタンコだったのに、ゴリゴリ削られてこれから厳しい。欲しいもの、必要なものは概ね我慢が確定した。と、しょぼくれた不満がつのる。しかしこのタクシーのあたりで、これはすごい成長なのだけど、友人は落ち着きつつあった、と思う。(*このお金のこと、後で話をすることになった。別の記事でまとめます)

 

金銭、時間、都合、体調、そういった諸々、「ふりまわしたかもしれない」とか、後悔とか。衝動性や怒りが退いて、冷静な雰囲気としゅんとした雰囲気、「ミスったなら今からでも気遣いできるかな」とか、そういう反省的な、配慮的なものがみられた。これは昔はなかったこと。「相手も悪いが、自分も悪い」と考えられるというのは、実は、自我がリッパじゃないとできないことだ。素晴らしい自我の成長。

 

こちらも、ここまできてイライラとか、ムッとか、お金が、とか、そういうダサいのは無しでいかなきゃホントにダメだと気持ち切り替える。実際これからしんどいだろうけど、かといってなんなのだ、という感じに楽天的にいく。

 

これで、なんだか、いつも通り「なかなおり」と相成った。トラブルの内容は、体の不調、希死念慮、こちらの不機嫌と無言、お金のことなど。そしてそれらをひっくるめてぶちまけた根源は、「衝動的な行動」と「丁寧にとめなかった」ということ。衝動性は怖い。衝動性は、行動になるまえに止めるべし。

 

 

今回のまなび

ひとつ、インチュニブはすごい。

ふたつ、衝動性はやばい。止めるべし。